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ちゃらんぽらん日記

日々のあれこれ

家族・夫婦のあり方

うちの夫婦や家族のあり方について、前にスイセイが言っていた。それは「ドミトリー」という感じだと。言えてるなーと最近よく思う。ドミトリーというのは、安宿の相部屋のこと。何人かの旅行者で同じ部屋をシェアすることだ。それぞれは自分の日々を過ごしていて、夜部屋に帰ってきたら、その日にあったことを報告し合ったり、気が向いたらごはんをいっしょに食べたり、朝までお酒を飲んだりもする。誰とも話したくない時は、同じ部屋の中でも寝袋ひとつにくるまって、さっさと寝てしまう。

日々ごはん(2)

日々ごはん(2)

 

 

年末年始に家庭の中で大きな出来事があって、私たち夫婦や家族のあり方について悩み続けてきた。その中でふと今日、みんなが(この家族の構成員のひとりひとりが)家に帰るのを楽しみに思うような家庭にしたいと私は思った。楽しみというのはわくわくするという意味だけでなく、家にいることでほっと落ち着けるから楽しみだという意味も含む。要するにひとりひとりが安らげる家にしたいと思った。

 

そんなときに『日々ごはん②』を読んでいて、家庭にはみんなで過ごす時間とそれぞれがひとりで過ごす時間とがあって、それぞれが確保されて尊重されるのが私の理想の家庭だと思った。時を経るに従って状況が変われば、それに応じてその割合も変わるだろうが、たとえば今であれば、家庭の中で最も大切にされるべき人(息子)がはっきりとしているから、彼を中心に物事を考えれば良さそうだ。しかし彼のためにみんなで過ごす時間が多いほうが良いというのは安直な考えだと私は思う。確かにひとつの側面として私も夫も息子のために存在しているけれど、それがすべてではない。だからほかの側面も大事にした上で、みんなで過ごす時間(量)よりもその密度(質)を大事にしていけば良いのではなかろうか。

 

また、夫婦においては、私が何かとふたりで過ごしたがるのに対し、夫はどちらかと言えばひとりで過ごしたがる。そこでどちらかに合わせるのではなく、ふたりで過ごす時間は確保してその時間をより充実したものにしたらよいのではないだろうか。お互いにその考えが共有できていれば、四六時中べたべたとしていずともいっしょに希望ある未来を向いて共に歩んでいける気がする。

 

と、平凡な私の家族観を書いてみたが、高山さんとスイセイさんの家族観がすごいのは、上記に続けて以下の文章が来る点だ。

もしもその部屋のひとりが本当に危機のようなことになった時には、それぞれの予定や生き方をかなぐり捨ててでも、命がけでその人を助ける。と、まあそんな感じだろう。 

私たち家族もそうありたいものだが、まずはその気持ちを共有することから始めてみようか。

 

のろまに見えても真面目にやる

同じ仕事の時間を過ごすのでも、いいかげんに器用にやってしまうのと、のろまに見えても真面目にやるのとでは、得るものの中身がうんとちがう。その時はたいして気がつかなくてやりすごせても、後々、身についてくるものは雲泥の差っていう気がする。私は、亀のような真面目さんの生き方の方が好み。(22頁)

日々ごはん〈1〉

日々ごはん〈1〉

 

私はついいいかげんに器用にやってしまうタイプだ。事務系の仕事ではそれはともするといいことのように思われがちだ。でも本当にそうかな、と自分のことを省みた。何より後々の自分のためにならないかもしれない。気づいたら目の前にある作業をこなすのみで時間が過ぎ、血肉となるものが残っていないかもしれない。

のろまに見えても真面目にやる人たちのことを、ややもすると私はどこかで見下してしまっていたような気もする。その人たちの尊さにも気づかずに。私には職人(手仕事をなりわいにする人たち)を志すことをあきらめた経緯があるのだが、私の持つそういった性質を考えると、それは当然の選択であり成行だったのだろう。もっと、自分の持つ性質について知り、自分と異なる性質を持つ人たちを尊重したいものだ。そしてできるのであれば、その生き方に学びたい、と今夜の私は思うのだ。

 

charanporan42.hatenablog.com

 

何か選択をしないとならない場面に行き当たったときに直感で選んだり選んだ理由をうまく言葉にできなかったとしても、その選択を自分で引き受け、その道を歩みながら少しずつ言語化していく。振り返り振り返り、言葉にならなかった思いたちに言葉を与える。そうして考えながら少しずつ前に進んでいく。そんな風にしてこれからも生きていきたい。

どういう本が好きかよりもどのような思いでその本を読んでいるかが知りたいと思うことについて。

  ひと口に本好きと言っても本好きには色々ある。 私が好む読書に対する姿勢とは、たとえば自らの幼さを知った上でもがき、その苦しさをどうにかしたくてその糸口を本に求めるようなものだ。人によってはそんな読書の仕方は反吐が出るという人もいるだろうけど、私自身がひとつにはそういう態度で読書しているし、同じような人を好ましいと思ってしまう。 博識になりたい賢くなりたいと思って本を読む人もいるだろう。もちろん私の中にもそういう下心があることは否定しない。しかし何か自分の中に確固とした強い動機のないまま、ただ漠然と本を読んでいる自分を周りに見せることで或いはどのような本を好むのかアピールすることで自分を実際より博識に賢く見せたがる人は苦手だ。そういう下心には敏感だ。もちろん私にもそういう経験が全くないとは言えないが。 ただ単に知識をひけらかすことで自分の体面を保とうとする人はものすごく苦手だ。では私の心から尊敬する博識だと思う人とそういう人と何が違うと私が感じるのか考えてみたところ、抽象的なことになってしまうが、愛情があるか否かだと私は思った。他者に対する大きな大きな愛情。しかしそんな人は恐らく滅多にいない。そこまでいかずとも、前述のように自らの幼さに悶え苦しむ経験をしたことがある人は好ましい。私にとって。それに尽きるのだけど。

なんとなく

 ずっと放置していたのでなんとなく更新。

 あとひと月ほどで2016年が終わる。10月末ごろから怠惰に日々を過ごしてしまった。生活態度はすぐに精神状態に反映される。料理をしなくなり、本を読まなくなったと思ったらすぐに不調がやってくる。逆もまた然り。残りの日々は少しでも心身ともに健やかに暮らしたい。簡単なもので良いので自分で何が食べたいのか考えて作る。一日の終わりには体を温めて心安らぐ読書の時間を設ける。とりあえずこのふたつを心がけて日々を過ごしてみよう。

倉敷

ふとしたきっかけで、3年前に倉敷へひとり旅をしたことを思い出した。当時はまだ25才、定職に就いていずただただ自分に自信がなくて、手に職をつけたいと考えていた。倉敷へ行ったのもその手がかりを得るためだったのだけど、その旅でその考えを捨て、同時にまず自分で生計を立てられるようになろうと決意したのだった。今思い出すひとつひとつが素敵な旅だった。

若いときはただそれだけで苦しいけど、時が経てば苦さとともに輝きがあったように思い出されるから不思議だ。平凡な人生だけど、こうして一歩一歩進んできたし、これからもそうしていくのだろう。苦しんでいる若い人をあたたかい気持ちでそっと見守れる大人でありたい。

原点に返る

 素敵な人に会った。その人とお話して、改めて自分の職業ややりたいことについて考えた。その結果決断し選択したものが二つある。

 一つは、私と夫は当分家は賃貸で構わないということだ。これは夫とも話し合って決めた。私も夫も今の職業に満足していない。だからと言って二人とも今すぐにやりたいことができる状況にはないのだが、いつかそれができる環境が整ったとき、迷わずそれに飛び込んでいけるよう、自由度を高めておきたいのだ。家やマンションを買うとなると、どうしても今の職業を定年まで続けることが前提になってしまうので、その選択はしないことに決めた。

 もう一つは、もう一度日本語の勉強をすることだ。やりたいことは何か改めて考えていて、原点に返ろうと思いついた。私は物心ついた頃から本が好きだった。中学生のときに英語に出会い、言葉や言語、特に母語である日本語への興味が強くなった。しかし、せっかく進学した大学ではそれらの勉強から逃げてしまった。逃げたことにもう一度向き合うことは、長らく私にはできそうになかった。勇気も要った。でも今なら雑音は気にせず自分のペースで向き合えそうな気がする。まず、原点となった一冊を今夜読み返してみようと思う。

 

日本語の年輪 (新潮文庫)

日本語の年輪 (新潮文庫)

 

 

 

障害者として生きる

 私は人生の中である一時期、色んなことから逃げていた。その時期があるから、これから先逃げるということはしたくないと思っている。なぜなら、逃げた自分に言い訳をしながら生きるのはもうこりごりだからだ。では、逃げたことともう一度向き合うのか、それとも逃げた先にあったことと向き合うのかということになると思うのだが、私の場合は後者だった。私が色んなことから逃げたのは、いちばん自分が向き合わなければならないことから逃げていたからだと次第に気づくようになった。そのいちばん向き合わなければならないこととは、自分が精神を患っているという事実だった。私は次第にそれと向き合うようになった。自分の持つ障害と向き合い、それを受容した。それには、今も大切に思う方々との出会いがあった。そのことを、これからも大事にして生きていきたいと思う。これまで私は言葉にして言うことはなかったけれど、私は「障害者」として生きていこうと思う。それがどういうことを意味するのか、これから先も考え続けることを含めて。