self-esteem
けっきょくこれに尽きると思う。人を傷つけたくないとか自分が傷つきたくないとかいろいろ言ってみたけど、私はまだまだ自己肯定感が低いのだ。ありのままのじぶんをじぶんで愛せていないのだ。道はまだ長い。
まなざし
「お客さまのニーズが」と語る人の顔が目の前にいる私の方を向くことは一度もなかった。彼がひとりで話し続けるのを聞きながら、時折挟む私の相槌や言葉は彼にはまったく届いていないのだろうと思った。脳内で思い描いていることと現実とが乖離していることに気づいていないのだろうかと私は考えながら、私も同じようなことをしがちだと省みていた。彼の腕は確かだと感じた。職人気質なのだろうか。概念的にニーズを語るのではなく、目の前の私の表情を見て言葉を聞いてくれたらいいのにと思った。でも同時にきっと彼には私には見えないものが見えていて、それにいい意味で憑りつかれているからこうなってしまうんだろうなと彼が見ている世界の存在を感じはした。人と人が心を通わすことの奇跡を思いながら、でもどんな人にも寄り添ったり時折そっと側にいることはできそうだとも考えていた。
暴力
私のコミュニケーションの仕方はしばしば暴力的だ、ということをはっきりと認識して愕然としています。私はしばしば白か黒かという短絡的な思考に陥りがちで、しかも大事なときにそれを繰り返してしまう習性を持っているようです。要は、時間をかけて相手を知ることや時間をかけて距離を縮めることが苦手です。特に自分が相手に深く惹きつけられているとき、あまりにも急ぎ過ぎてしまいます。そこには相手のことを尊重できていない自己中心的な私の姿が反映されています。省みると、私のコミュニケーションは強制や脅迫によって相手を支配しようとしているのが見え見えで、相手からすると暴力に過ぎないのかもしれない。ものすごく傲慢な自分が見えました。コンフリクトの入り口が見えているのが分かっていたのに、自制ができなかった。ガラスに熱湯を注いだら割れてしまうように、修復はむずかしいのだと思っています。
うれしさの理由
彼と出会えて「話が通じる」という感覚を覚えて、心の奥底から湧き立つほどうれしかった。ふとなんであんなにうれしかったのだろうと考えていて、ずっと孤独だったからだなと思い当たった。彼と話したことというのは何かに対するなんとなくの感想などではなく、孤独に押しつぶされそうになりなってもがく中で、読んで見て聞いてきたことの積み重ねが私に与えてくれたものものだった。私がいまの考えや価値観になったのには一言では表せられない長くそして地道な学びの積み重ねがあってこそで、彼と話すことでそうしたことがやっと日の目を浴びたような気がした。学びは楽しいものだが苦しみも伴うもので、そうしたことぜんぶ含めて、そんなことことばにして伝えなくても「わかってるよ」とあなたはそのままでいいよと存在を認めてもらえた気がした。これからも私が孤独なのは変わらないだろう。その苦しみは自分が背負うしかない。でもこれからは、得た知見を感動を喜びを話せる人がいる。そしてその人はきっといっしょになってそれを喜んでくれる。そう思うと、心から幸せだなと思うわけです。
恋をするということ
「愛は時間である」と言った人がいました。恋をすると、相手のことが頭から離れなくなります。何をしていてもずっと、頭の片隅にその人がいる。気づけばただその人のことを想っている。そうなってはじめて恋に落ちたのだと気づくわけです。
私の恋ははじめから成就することのない恋でした。だからこそいろんなことを考えました。でも何度考えても結論は同じで、大事にしたいものもはっきりしていました。私の恋愛対象は男性で、私は男性としても彼が好きだけど、恋愛対象を超えて彼という人間が好きになっていました。彼が持つすべてを大切に思っていてこの先もそうでありたいと思ったし、彼にもそうしてほしいと思っていました。
妻子のある人を好きになるということは、その奥さんや子どもさんの存在も含めて好きになるということです。奥さんを子どもさんを心から愛する彼のことが好きになりました。だから彼とどうこうなりたいとは思わなかった。刹那的な欲望を否定はしないけど、心から人として大切にしたいと思いました。
それから私は子どもたちを大切にしたいと思いました。私の息子、彼の娘さん、彼らを傷つけるような言動はしたくないし、そういう関係にはなりたくない。
だから、深みにはまる前に彼に思いを聞いてもらいました。彼ならきっと理解してくれると思ったからです。伝えてよかったです。
愛するということはその人を取り巻くもろもろを含めてそのまま受けとめることだと思いました。私は今もこれからもずっとひとりの人間として彼を愛し続けると思います。