ちゃらんぽらん日記

日々のあれこれ

弱音

 生まれ育ったこの土地でじぶんを生かす方法を考える、と言ってみたものの、いまは困難ばかりが目に付く。この土地を変えようという気概のある人たちとはなんだか気が合わなそうだし、大きなものがこの土地を支配していることから逃げられそうにない。あの寂れたまち並みが寂れたまま維持してあるのはおそらく大きなものにまかれているのだろうとか、考えるだけで憂鬱になる。この冴えない気分は昨日から降り続く雨のせいもあるのだろうか。こんな日は、愛しそっと側にいてくれる人じゃなく、よく分からないままにじぶんのことを嫌っている人たちのことばかり頭に浮かんで、悲しくてやりきれない。ああ、涙が出そうだ。

 いまは大きなものから距離を置き、とぼとぼと近所の町並みを歩くことにしようか。

 ふるさとと向き合うということ、それはふるさとに生き続けることと等しいのだろうか。移住という方法を取った人たちはふるさととどう向き合い、どうじぶんの中で折り合いをつけてきたのだろう。強く知りたいと思う。

2018GW備忘録

 書くより人と話すのが楽しくてあまり書かなくなってからあっという間に時が過ぎた。書くというのは私にとってアウトプットの一手段で、どうやら私はインプットとアウトプットがたまらなく好きな性質らしい。息子と過ごしたゴールデンウィークをここに記す。

 

◆4月29日(日)昭和の日

 前日に雑貨屋に行ったのだが、その際に取り置きしてもらっていたものを取りに伺う。陶器でできたブローチふたつ。花と鳥。せっかくなので息子にパンも買う。息子は「パン、パン」と嬉しそうにして、車に戻るとさっそく黒糖パンを食べていた。

 帰りに河川敷で行われていた催し物に行く。お目当ては移動図書館。モバイルハウスと言って、軽トラに木で作った小屋を乗せたものに数十冊の絵本などが置いてあった。開け放たれた窓から吹き抜ける風が心地よく、使われている木材(杉)もすべすべで、これを作っている会社はいい宣伝となっただろうなと思った。絵本が大好きな息子は大喜びだった。

 帰りに買いたて付けたてのブローチを引きちぎられていることに気づく。

 昼は自宅で軽く焼肉をして食べる。

 午後からは隣町のマルシェと雑貨屋2件に行く。息子ははらぺこあおむしのクッキーを買ってもらってご機嫌だった。

 

◆4月30日(月)振替休日

 宮崎までドライブ。連れ合いがイオンモールに行きたがったので内心渋々ついていく。お昼は杵屋で冷やしうどんを食べる。大盛が無料だったのに並盛にしたのを後悔。冷やし麺はつるつるといくらでも食べてしまう。

 連れ合いがゼビオに行っている間に息子とサーティーワンでアイスを食べる。ダブルが安い日だったので、チョコミントとちょっと変わったチョコレートのダブルにする。息子はお昼にもお子様セットでアイス(いちご)を食べたのにここでもたくさん食べる。

 今日の目玉はブックカフェと古本屋。どちらも本を物色しながら店員さんと楽しく話す。指向するものが似ている人が話すのはとても楽しい。ポートランドに関する本と一般の人たちが書いた文章を集めた本を1冊ずつ買う。ブックカフェで飲んだ台湾茶がおいしかった。どちらもまた行きたい。

 この日息子はハイテンションで車の中でずっとしゃべっていたし、活動的で私はとても大変だった。

 

◆5月3日(木)憲法記念日

 お昼前に思い立ち大分へ。大好きな本屋で本をたくさん買う。駅のショッピングモールはグラニフがいちばん楽しかった。

 

◆5月4日(金)みどりの日

 父親に息子を預け、旧友と隣の市にあるカフェへ。田舎にある古民家を改装したカフェで、ずっと行きたかったところ。ガラス張り、白壁で、解放した扉から古民家を囲む自然が見渡せて、良いところだった。ご飯もおいしい。また行きたい。

 友人は少し前に県の職員に転職した人で、お互いにいろんな自治体のまちづくりに関心があり、たのしい話ができた。

 地元に戻って老舗菓子屋で行われているふたり展へ。さをり織りの壁掛けがすてきだった。スカートが欲しかったけれど、今回はシュシュだけを買う。息子のお土産に鮎やな餅と破れ饅頭を買う。

 

◆5月5日(土)こどもの日

 両親、姉、息子と5人でドライブ。市内の湿原に行く。アメンボがたくさんいた。珍しい植物があり、珍しい鳴き声の鳥もいた。ただ、周囲の山に植わっている木々が伐採されていたのが残念だった。

 海沿いの町でお昼。母はかきあげ丼、父と姉は漬け丼、私はカキフライとおにぎり。息子は待ち時間にひとり弁当を買って食べていたのだが、私のおにぎりをほしがるのであげる。

 帰りに父の絵が展示されている火葬場と駅前の複合施設に寄る。

 帰宅して少し寝、夜は歩いて陸上の大会へ。すぐに帰って寝る。疲れた。

 

◆5月6日(日)

 息子、発熱。

 

 というわけで、今日も体調不良の息子と過ごしています。息子が昼寝から起きたのでこのへんで。

 

「伝える」

 心から尊敬し憧れている女性からありがたくうれしい言葉をもらった。「あなたには『伝える』ことをしてほしい。」と。あなたはいままでつらい思いをしてきたけど、その経験が肥やしになっているねと。それがほかでもないその人からもらった言葉だから心の底からうれしかった。有頂天になるような喜びではなく、じんわりと湧き上がってくるような喜びだった。そして「ぶれないでほしい。」とも言われた。いま持っている信念をそのまま貫いてほしいと。これは彼女からの愛情のこもったエールだと思っている。やりたいこと・好きなことを思いきりする1年にします。

矛盾

 すごく矛盾を生きてるなと。でもそれは事情を知らない他人から見た場合の話。私の中では根拠があるし、説明がついてるから納得してる。説明すべき人には私なりに誠意をつくして説明をするけど、相手にはその場での理解を強要しない。結論ありきで現実生活を生きていくので、その姿を見てもらって少しずつ納得してもらうしかないかな。

self-esteem

 けっきょくこれに尽きると思う。人を傷つけたくないとか自分が傷つきたくないとかいろいろ言ってみたけど、私はまだまだ自己肯定感が低いのだ。ありのままのじぶんをじぶんで愛せていないのだ。道はまだ長い。

まなざし

 「お客さまのニーズが」と語る人の顔が目の前にいる私の方を向くことは一度もなかった。彼がひとりで話し続けるのを聞きながら、時折挟む私の相槌や言葉は彼にはまったく届いていないのだろうと思った。脳内で思い描いていることと現実とが乖離していることに気づいていないのだろうかと私は考えながら、私も同じようなことをしがちだと省みていた。彼の腕は確かだと感じた。職人気質なのだろうか。概念的にニーズを語るのではなく、目の前の私の表情を見て言葉を聞いてくれたらいいのにと思った。でも同時にきっと彼には私には見えないものが見えていて、それにいい意味で憑りつかれているからこうなってしまうんだろうなと彼が見ている世界の存在を感じはした。人と人が心を通わすことの奇跡を思いながら、でもどんな人にも寄り添ったり時折そっと側にいることはできそうだとも考えていた。

暴力

 私のコミュニケーションの仕方はしばしば暴力的だ、ということをはっきりと認識して愕然としています。私はしばしば白か黒かという短絡的な思考に陥りがちで、しかも大事なときにそれを繰り返してしまう習性を持っているようです。要は、時間をかけて相手を知ることや時間をかけて距離を縮めることが苦手です。特に自分が相手に深く惹きつけられているとき、あまりにも急ぎ過ぎてしまいます。そこには相手のことを尊重できていない自己中心的な私の姿が反映されています。省みると、私のコミュニケーションは強制や脅迫によって相手を支配しようとしているのが見え見えで、相手からすると暴力に過ぎないのかもしれない。ものすごく傲慢な自分が見えました。コンフリクトの入り口が見えているのが分かっていたのに、自制ができなかった。ガラスに熱湯を注いだら割れてしまうように、修復はむずかしいのだと思っています。