ちゃらんぽらん日記

日々のあれこれ

向上心

  向上心を持つことは時に良い方向に作用し、時に悪い方向に作用する。

 私の人生を振り返ってみたときに、向上心があることで悪い方向へと向かったのは、向上心を持つ人たちばかりの集団の中で、他人と比較することでしか自分を捉えようとしなかったときだった。反対に良い方向へと向かったのは、自分の外に基準を求めずに、自分の中にモチベーションを置いたときだった。

 自分自身は向上心を持っていたい。しかし向上心を持つことを人に強要することはできない。自分の中にモチベーションを置いて淡々と生きていくのが良いだろう。

 そうなると、自分がどこにいるのかというのは大きな問題ではなくなってくる。どこにいたって自分次第なのだ。

一杯のコーヒー

 育児で頭が煮詰まり、息子を夫に預けて家を飛び出し、近所に新しく出来たコーヒー屋へ行ってきた。温かいコーヒーをいただきながら、少しずつ紙に書き出して頭の中を整理する。いちばん大事なことは、あっさりと分かった。ついでだから少しゆっくりと考え事をし、紙に書き付けて、コーヒー屋を後にする。たった一杯のコーヒーをすするくらいの短い時間だった。でも、そのコーヒーに救われて大切なものを見失わずに済んだのかもしれない。また来よう。そのコーヒーがとても美味しかったから。

生後3週

 息子は割と寝てくれるし、家事は夫がほとんどしてくれるので、息子が寝ている時間はてもちぶさただ。明日からその時間は、普段行き届かないようなところを掃除したり、リビングをはいはい期に対応できる部屋に変えることに費やすことにした。もちろん気が向いたら録り溜めしたテレビ番組や映画をみたりもできるだろう。俄然、わくわくしてきた。

2016/1/21*36週4日 穏やかな時間

 以前お世話になった陶芸家さんの工房へ久しぶりにお邪魔してきた。薪ストーブが暖かく燃える側で3匹の猫たちが暖を取っていて、ゆったりとした時間が流れていた。陶芸家さんもそのお母さまも相変わらず素敵な方たちで、居心地が良くつい長居をしてしまった。彼女が淹れてくれたお茶はとても美味しかった。

 私が拙い手製のブックカバーを差し上げるととても喜んでくれた。彼女も仁部治身の素敵な本と彼女の作品である食器をプレゼントしてくれた。今日は睡眠が取れておらず辛かったけど、そこにいる時間は本当に穏やかで心地よくて辛いこと自体忘れてしまっていた。素敵な時間を過ごさせてもらった。

2016/1/11*35週1日 胎動の喜び、他つれづれ

 目が覚めると少し経って胎動が始まった。胎児とほぼ同じタイミングで目が覚めたのかなと嬉しくなる。「おはよう」と腹をなでながら話しかけてみる。最近になってようやく胎動の愛しさが分かるようになった。他の妊婦の影響で腹の胎児に話しかけるようになってから感じるようになった感情だ。人よりだいぶ遅いだろうけど、これはとても喜ばしいことだ。妊娠後期になり体がしんどいばかりで、「妊娠飽きた」とまで口走っていた私だが、ようやく残り少ない妊娠期間を楽しもうという心もちになってきた。8ヶ月の頃ほどダイナミックな胎動はもうないけど、最後まで小さな動きは感じられるらしいので、ひとつひとつの胎動を感じながらたくさん話しかけていきたい。

 3日前は妊婦健診だった。胎児は2500gまで成長、私の体重も3週間で4キロも増えていた…。当然、体重制限の注意を受ける。貧血もあるようで、鉄剤と胃薬を処方された。次回の健診は2週間後で、そのときには36週だ。次回からNSTをするらしい。いよいよ出産間近なのだな。

 新年から産休に入った。暇だ。思った以上に時間があるので、産休中にしたいことを再度書き出してみた。10件以上あって、スケジュール化してみると結構充実した産休を送れそうだ。昨日はその中の一つでもある、ベビー服の水通しをした。買ったときもベビー服の小ささ、可愛さに悶えたものだが、洗って物干し竿に干してみると、愛しさがこみ上げてくる。小さい服の数々が風にパタパタと揺れる様子は、見ていて飽きないものだ。

 もう一つ、産休に入って思うのは、ようやくのんびりできるということ。産休前、私がしんどいときには胎児も同じようにしんどかったはずだと思うと、胎児にも心からお疲れ様と言ってあげたい。そう思うと、8ヶ月になって思うように頑張れなくなったのは、一種の防衛本能ではなかろうか。短時間勤務にしたことで、胎児への負担を少しでも軽減できていたならいい。これまでは仕事を継続することに一生懸命で、腹の中の胎児をあまり労ってあげられず、申し訳なく思う。その分、せめて産休中は思いきり労ってあげたい。

 人が人と縁を切るというのはどだい無理な話で、「縁が切れた」と思っているのは思い上がりであり、実際には関係性が変化して続いているに過ぎない。物理的に会わなくなって会話がなくなったとしても、一度関係を結んだ以上、精神的な対話というのは可能であり何らかの形でそれは続いていくものだ。