ちゃらんぽらん日記

日々のあれこれ

表現

 私はこのブログを書くことによって何かを表現していることになるのだけど、最近ある本を読んで、表現とは言葉によるものに限らない、ということを少し考えていた。もちろん音楽やダンス、演劇も表現だし、日常の中で自分が発する言葉、着るもの、化粧、たたずまいや肉体なんかも表現になり得るわけだ。

 そう考えると、私は多くのことで意識的に表現しないということを選択してそれが結果的にひとつの表現となっている、ということに気づいた。人は自分を表現する術をたくさん持っていて、無意識の中にその中からひとつ、あるいはふたつとかみっつとか選んで表現している。たとえば、私の夫は体を鍛えることに日々勤しんでいるのだけど、彼は肉体を鍛えるという表現方法を無意識に選んで日々そのために努力しているわけだ。

 文学や美術が割と好きなくせに、表現について改めて考えたことなどなかったのだ、ということに思い当たった。(それでいいのかよ…よくないよな。)だから、表現について大したことなんか何も言えないのだけど、どの表現方法を選ぶか、大切にするかにその人らしさが出るのだなあと思ったらなんだか面白くなった。自分のことや人のことを、様々な表現方法という角度から見直してみたら、もっと自分のことや人のことを理解できるような気がした。

 

理解という名の愛がほしい??おとなの小論文教室。II

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育児の、母親の孤独感について

 育児中の母親は孤独感を抱える人が多いと言う。日々を子どもと家庭で過ごすことで、社会から必要とされていないような疎外感を感じると言う。誰よりも自分を必要としてくれる人が目の前にいるのに、孤独感という沼にはまってしまう。先日放送されたNHKスペシャルでは、育児中の母親が孤独感を抱えるのにはエストロゲンというホルモンが関係しているとされていた。しかし、ホルモンのせいで片付けるのではなく、自分なりに納得できるよう孤独感について考えてみた。
 結果、孤独感の裏側には、「孤独」と「孤立」という二つの要素があると私は思った。「孤独」は悪いことではない。その道のプロフェッショナルは誰でも孤独なものだ。子どもを産むというのは家庭という責任を負うということで、責任を負う人は誰しも孤独から逃げることはできない。孤独を受け入れて、自分の持ち場で一所懸命生きることだ。そこに専業、兼業の区別はない。
 一方で、「孤立」は避けなければならない。本来、育児は母親ひとりで行うものではないのだから、ひとりで悩まず、外部に助けを求めた方がいい。夫の協力、地域の繋がり、社会に居場所を見つけること。どれも大切なことだ。
 孤独感の正体は、「孤独」と「孤立」をいっしょくたにして受け止めきれなかった結果、精神的に辛くなってしまうのではないか。「孤独」を受け入れる覚悟と、「孤立」を避ける賢さの両方を持ち合わせていたい。

私の仕事観

 私は今の会社に、まず第一に経済的に自立するため、そして自分に自信をつけるために入社した。入社して2年が経った。現在、それらの目的はほぼ達成された。私は悩んだ。次のステップへ進む時期ではないのか。悩む中で、本を読んだり、人の話を聞いて、考えた。その中で新しく気づいたことがある。とりたてて書くようなことでもないが、私にとって大事なことなので書いて残しておきたい。
 先に書いた私が入社した目的は、そのまま当時の私の仕事観だった。恥ずかしながら、そこには自分のことしかない。
 仕事とは、まず第一に相手がいて成り立つものだ。だから、仕事とは、何者でもない自分が人の役に立てる貴重な手段である。学生の頃から「人の役に立ちたい」と考えて職業を選んだ人たちのことを私は無条件に尊敬する。私にはその思いが欠けていた。
 私たちは、仕事を通して人と、社会と繋がることができる。仕事をすることで、自分を必要としてもらえる。仕事をすることは、社会の中に自分の居場所を自分で作るということだ。これらのことを自分の殻に閉じこもってばかりいた頃の私に教えてあげたい。
 そしてまた、改めて認識したこともある。人生は日々の生活の連続だ。生活には様々な要素がある。食べること、寝ること、好きなことをすること。働くことも生活の一部を成す大切なもののひとつだ。働くことだけ生活から切り離して考えることはできない。
 これから仕事をしていく中で、私はもっと生きる喜びを感じたい。そのためには何ができるのだろうか。私は何がしたいだろう。それを考えて実行していく中で、仕事観もまた変わるだろう。それが楽しみだ。

働きながら好きなことをする

 今日は自分がいま行っている仕事について改めて考えてみた。人の役に立つことや考えることはいまの仕事ではできないのか。再度考えてみると、小さなことではあるものの、それなりに人と交わりながら誰かのために仕事をしているのだし、考えながら仕事をできるかどうかは私次第だという気がしてきた。
 それから、他の職業に就く可能性も考えてみた。適性であったり年齢であったり、現実的なところで可能性は小さくなっている面があると感じた。ただ、これは現時点での可能性であって、これから先の生き方次第ではまだ見えない可能性だってあるはずだ。
 これらを考えた上で強く感じたのは、自分の好きなことや得意なことをしたいという思いだ。それは、学びたい、考えたい、書きたいという何年も持ち続けている思いだ。
 では、いまの仕事を続けることと、好きなことをすることは、二者択一なのだろうか。働きながら好きなことをするという選択肢はないのだろうか。そう考えていたら、あるラジオ番組で次のようなことを言っている人がいた。
 生活は好きなことだけをするのではなく、色んな責任を果たしたり、困っている人を助けたり、色んなことを含めて生活だ。生活の中に働くことがある、と。
 この言葉は至極まっとうに私の心に響いた。新しいことへの挑戦からの逃げではなく、私に与えられた持ち場で果たしていくべき責任もまたあるのではないか。覚悟を決めた上でいまの仕事と向き合えば、新たな景色を見ることができるのではないか。
 今日はそんなことを考えた。明日はまたぜんぜん別のことを考えるのかもしれない。焦らずゆっくりじっくり考えていきたい。

最近考えていること

 ここ2週間ほどずっと、仕事について考え続けている。私にとって仕事とは何か。私がやりたいことは何か。簡単に答えは出ない。でも何となく掴めてきたことは、私はもっと仕事を通して人の役に立ちたい、そのことを通して喜びを得たいと思っているということだ。何らかの形で「人」を相手にし、そしてじっくりと考えながら進める仕事がしたい。自分の持っているテーマの延長上にヒントがあるのだろうけど、まだ辿り着かない。いずれにせよ、そのテーマに関してもっと勉強が必要で、勉強だけでなく「人」と関わることが大切だ。この二つは車の両輪のようなもので、どちらも不可欠だ。答えが出ていないので尻切れトンボのような文章になってしまったが、今日はここまで。

私が思う母親の大変さについて

 よく、育児は大変だ、と言う。辛い、という声さえ聞く。しかし私は、育児そのものが大変なことはあまりない。第一に夫がとても協力的であるし、以前書いたように産後すぐにマタニティブルーになったことをきっかけに多方面からサポートを受けられているからだ。子どもがなかなか寝付かないときやなかなか泣き止まないときは苦労するが、それが育児の本当の辛さではないと私は思う。
 では、何が辛いのだろう。私は最近本を読んだり考え事をすることに精を出している。それは有意義だし充実した時間でとても楽しい。なぜならば、私が私でいられるからだ。育児において、母親にはややもすると「私」がなくなってしまうから辛いのではないか。要するに、アイデンティティの問題だ。
 出産前、私は私だった。しかし、いま私は子の前では「母」でしかない。本当は母でない自分もあるのに、育児に没頭していると、その自分を見失ってしまいそうになる。特に、今は育児休暇中で仕事をしているわけでもないから、仕事人としての私は今はいない。要するに、本来ならば、母としての私、仕事人としての私、個人としての私、三つ揃ってはじめて私らしくいられるのだ。そのことを、夫に、親に、周りの人たちに理解してもらいたいと思う。
 昨年度末に放送されたNHKスペシャルで、子育ては「共同養育」が本来の形だったとされていたことを思い出す。子は母が一人で育てる必要はないし、母は育児だけで満たされる必要はない。夫の協力、親の協力、外部の人の支援、様々な人と関わってはじめて健全な育児が成り立つ。母親は誰でも罪悪感を持たずに自分の時間を持っていいのではないか。子どもがいても、一人の人間として自分らしく生きることを考えたって良いのではないか。そうでないと、いつか育児から離れたときに、抜け殻のようになってしまうと私は思う。