ちゃらんぽらん日記

日々のあれこれ

備忘録(アイデンティティについて)

 アイデンティティの複数性という視点を得た。私が持っていたアイデンティティは単一のものであるという認識を塗り替えたとても大事な視点だ。考えてみれば、アイデンティティは多様な側面から成り立っているというのは当然な気がする。単一と言えば単一だけど、多面的で重層的というか、多面体をイメージするとしっくりくる。私という人間はひとりだけど、状況に応じて表出する側面が異なるのは当然だ。アイデンティティは単一なものという考えに縛られると、非常に生きにくいように思う。私にとってとても大事な視点を得た。

うつ状態であることに気づくのに1週間かかった

 明日で2歳になる息子がインフルエンザだと診断されたのが2月2日。それから外出もろくにできず、熱などの症状はあるものの元気いっぱいな息子との密室育児が始まりました。

 2月6日。関節痛、下痢、咳、鼻水の症状で私も内科を受診。インフルエンザは陰性でしたが、次第に鼻詰まりがひどくなり、耳に違和感や痛みを覚えるようになりました。この日の夕方、精神的にも肉体的にも限界が来たなと思ったのを覚えています。

 2月6日からの2日間は母が来てくれ、日中息子の相手をしてくれました。育児の面では大変に助かったものの、私の体調は悪くなる一方で、熱も39度近く出ました。

 2月8日。ようやく息子が保育園へ登園。やっと自分のメンテナンスに集中できるかなと思っていた矢先、月のものがやってきました。私のたいていのパターンは、1週間ほど前からPMSが始まり精神的に不調が続き、生理が始まると精神的に安定するというものです。

 しかし今回は違いました。経血が多く体がなんとなくだるい。貧血気味でふらふらし、おなかもぐるぐるする。とにかく情緒不安定で些細なことで涙がぼろぼろ出る。まるで産後直後の数日間のようでした。

 そんなもろもろがあって、息子の看病が大変だったから少しストレスが出ているのだろう、体の状態は精神衛生面にも直結するからそのせいだろう、PMSが長引いているのだろう、こんな風に、ある意味合理的に考えて、一時のことだと思おうとしていました。

 でも、日々が経っても私の心が不安定なのは変わらなかった。慢性的に悲しくて、寂しくて、満たされない。したいことやしないといけないことができない。具体的には、洗濯や掃除といった普段なら簡単にこなせていたことができない、息子に食事を食べさせることも普段以上にものすごく労力がいる、銀行に振り込みにいくなど些細な用事を済ますことができない、ポストに届いた郵便物を開封できない、など、など。日常生活を構成する小さなことができなくて、いつの間にか何もできなくなっていました。

 実際には全く何もできないわけではないです。朝起きたらお湯を沸かすとか、服を着替えることはできる。でも、普段当たり前のようにこなすことができるいろんなものが本当にできないか、できても驚くほどの労力がいるのです。

 でも、私はまだいいんです。このことに自覚できたからです。鬱のただなかにいる人は自分が鬱だと気づきません。甘えてるからできない、できるのにやらないなまけものだと思っていて、自分を責め、さらに鬱のドツボにはまっていきます。

 双極性障害になって自分の障害と向き合っている私でさえ、1週間かかりました。あなたは大丈夫ですか?鬱である兆候はありませんか?すべて放り出して、休んでいいんですよ。

 最後に、私はどうしたか書きます。約1週間、鬱の状態が続くとどうなるか。想像したことがありますか。正常じゃないんです。正常なことができない。でも私がいちばん辛かったのはそこじゃなかった。鬱であるまさにそのこと自体が苦しかった。鬱のときって独特の感じがするんですね。脳が。なんだかもやもやして晴れることのないような。そこです。私は何度も経験していつか鬱が終わることをしっているのに、晴れることはないと思ってしまうんです。そして、晴れるのであればいつ晴れるの?あした?今日?いまは?鬱病患者は「いま」晴れてほしい。だから、出てくるんです。「死にたい」という言葉が。「死にたい」は「一刻も早くこの苦しさから解放されたい」と同義です。

 私はどうしたかですね。私は眠りました。推奨される方法じゃないでしょう。いつもより多くの睡眠薬を飲み、起きられないであろうことを想定して翌朝の息子の送迎は祖母に頼みました。私にできる唯一の自己防衛でした。死ぬ前にいったん眠ること。いまの私の最後の砦です。

鬱期

 いま鬱です。もう1週間くらいになるかな。しないといけないことができない。したいことができない。家事、育児、簡単な用事を済ませること、郵便物を開封するといった簡単な雑事、本を読み続けること、友だちに会いたくて約束までするのにそれを実現させることがとても困難に思えること。つらいです。できないのはしたくないのとは違うから、人から義務を指摘されるとものすごくつらい。そして慢性的に悲しい、寂しい、満たされない。鬱のときはこれが永遠に続くような気がする。そんなことなくて終わりが来るのをいまは経験的に知っているけど、若いときはそれが分からなくて絶望に支配されそうでつらかった。ああ、いつになったら解放されるのだろうか

論理と文法と信用と

私は言葉や論理の力を過信してるところがあるけど、言葉や論理で人を殴って大事な人を傷つけるくらいなら沈黙した方がいいなと今日思った。相手が何を言わんとしているのか考えるときに私は文法をよすがとしがちだけど、そうじゃない人もたくさんいることを自覚した方がいいし、そうすることが足枷となることもあるとも思った。

 これはちょうど1年前くらいに私が書いた文章です。読み返して、元夫とうまくいかなかった原因がここに集約されてるなと思った。私もそんなたいそうなレベルに到達していないという話は今回は置いておいて、元夫は本当にめちゃくちゃな文法を使っても平気な人で、私が元夫の言わんとすることを理解するために厳密な言葉の使い方を求めようならその私の行為を非難してくるような人でした。本当に、見ている世界も信用している世界も自分が落ち着くと思う世界もまったく異なっていた人だったんだなと。

 そんな元夫との関係の中で分かったのは、私は自分が思ったより言葉や文法を大事にしているし、論理が通っていることに安心感を求めるし、そういうものを持ち合わせている相手を信用するし、その信用をすごく大切に思っているということ。

 ほんと、なんで結婚したんだろうね。

すべり台を買ってよかったという話

 息子がインフルエンザB型だと診断されたのが先週の金曜日。7日目になる本日、ようやく登園しました。インフルエンザにかかると最低5日間は登園禁止かつ熱が下がって3日間は登園禁止なので、日曜日にようやく熱が下がった息子は月火水と休んでようやく登園できたわけです。

 熱があっても元気いっぱい、熱が下がってからはいっそう元気いっぱいでパワフルなもうすぐ2歳になる男児の相手をするのは本当に大変でした…。インフルエンザにかかっているので下手に外出もできないし、ほとんど家にこもりきりな生活をしていたのですが、4日目にしてさすがに気が滅入りました。4日目の夕方、久しぶりに外に出ると、空気が冷たくて心地よく、夕焼けがきれいだったのは心にしみました。家にこもりきりなのはよくないな、朝陽を浴びて昼には南にのぼった太陽を見、夕焼けを眺めながら一日を終えるというメリハリを持って生活するのは大事だなと改めて思いました。

 5日目からは私も体調を崩してしまい、昼間はばあばに来てもらいました。息子のエネルギーは満ち満ちていて、テレビや絵本、おもちゃだけでは昼寝をしないので、先月買ったアンパンマンのすべり台つきジムで目いっぱい体を動かしてもらいました。買っておいて本当によかった…。あのときの私をほめてあげたいです。

アンパンマン うちの子天才ジャングルパーク ボール付き

アンパンマン うちの子天才ジャングルパーク ボール付き

 

 昨年まではジムの必要性はみじんも感じなかったのですが、ひとり親になり、また寒い冬を迎えて、とても寒い日や雨の日などお外で遊べない日をもて余すようになり、今となってはジム様様です。息子は体を動かすのが大好きですべり台は心から楽しんでくれるし、大好きなアンパンマンのジムだし、とても気に入っているようです。どのくらいの期間これで遊べるのか分かりませんが、息子といっしょに目いっぱい楽しもうと思います。

1才児が好きな絵本

charanporan42.hatenablog.com

 夏にこんな記事を書きました。息子はあとひと月ほどで2歳になります。そこで今回は1才の息子が好んで読んだ絵本をご紹介します。

いないいないばああそび (あかちゃんのあそびえほん)

いないいないばああそび (あかちゃんのあそびえほん)

 

  まずはこれです。おそらく保育園で読み聞かせをしてもらって出会ったのでしょう。ばあばの家にあった同じシリーズの『ひとりでうんちできるかな』を見つけると、内容には構わずページをめくっては「ばあ~~!ばあ~~!」とひとり楽しんでいました。調べてみていま知ったのですが、このシリーズは14種類もあるんですね。1才前半の頃は内容に構わずすべていないいないばあの本として認識していた息子も、『いいこでねんねできるかな』を読んだら「ねんね」と言ってごろんと横になったり、『ごあいさつあそび』を「ばあ~~!」と言わずに大人しく聞いたりできるようになりました。成長したものです。とは言えいまだにいないいないばあが大好き。 

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

いないいないばあ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

  こちらの『いないいないばあ』も読み込んでぼろぼろになりました。同じシリーズでは息子はこちらが好きです。

のせて のせて (松谷みよ子 あかちゃんの本)

のせて のせて (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

  1歳後半からぶっぶー(車)に対する興味が強くなり、実物を見ても絵本で見ても喜びます。この絵本は主人公の「まこちゃん」を息子の名前に呼び変えて何度も読みました。

もうねんね (松谷みよ子 あかちゃんの本)

もうねんね (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

  このシリーズでいくと息子は『もうねんね』も大好きです。何より大好きなワンワン(犬)が表紙なので「読んで」と持ってくるときにはすでに興奮気味。ちなみに母は幼い頃『おさじさん』が好きでした。

おさじさん (松谷みよ子 あかちゃんの本)

おさじさん (松谷みよ子 あかちゃんの本)

 

  私がこの絵本を息子に読み聞かせたことはまだないのですが、「びやびや」(うさぎの息子語)と言って喜びそうな予感がします。

だるまさんシリーズ「が・の・と」(3点セット)

だるまさんシリーズ「が・の・と」(3点セット)

 

  0才のときから引き続いて大好きなのがこのだるまさんシリーズ。月齢を重ねるとともに反応も高度になってきて、成長を感じます。2才になってもまだまだいっしょに楽しめそうです。

こぐまちゃんえほん(15冊セット)

こぐまちゃんえほん(15冊セット)

 

  2週間に1度は息子といっしょに図書館に行き、貸出可能数めいっぱいの冊数を借りて帰ってきます。借りる本はすべて息子が自由に選ぶのですが、毎回必ず入っているのがこのこぐまちゃんシリーズです。『しろくまちゃんのほっとけーき』を最初に好きになり、今はこぐまちゃんとしろくまちゃんを交互に指さしては喜んでいます。

はらぺこあおむし エリック=カール作

はらぺこあおむし エリック=カール作

 

  息子が大好きで寝る前の絵本タイムに必ずと言っていいほど息子が持って来、もう2冊目もぼろぼろなのが定番中の定番であるこの『はらぺこあおむし』です。この絵本は何度も改訂を重ねているそうですが、うちには1985年9月の66刷と2016年11月改訂の625刷があります。見比べると、イラストや色合いがだいぶ異なっています。

おつきさまこんばんは―くつくつあるけのほん4 (福音館 あかちゃんの絵本)

おつきさまこんばんは―くつくつあるけのほん4 (福音館 あかちゃんの絵本)

 

  母である私も林明子の絵本は大好きでしたが、息子はこの『おつきさまこんばんは』が大好きでした。でもそう言えば最近あまり持って来なくなったなあ。お月さま自体が好きみたいで、この間はせなけいこの『うさぎちゃん』を読んだときにしきりにお月さまを指さしていました。

うさぎちゃん (こどものくに傑作絵本)

うさぎちゃん (こどものくに傑作絵本)

 

  何よりも息子の成長を感じるのは、図鑑を好むようになったことです。特に動物図鑑が好きで、図書館に行くと絵本のほかに図鑑を好んで見ます。家には小学館の動物図鑑があります。

動物 (小学館の図鑑NEO)

動物 (小学館の図鑑NEO)

 

  特に好きな動物は、ワンワン(犬)、びやびや(うさぎ)、パ(パンダ)、ニャンニャン(猫)、そしてまだ言えないけど象やコアラです。来週末の日曜日に、晴れたら息子といっしょに小さな動物園へ行こうと計画しています。とても楽しみです。

幸せとは何か考えたときにいちばんに顔が浮かぶ人

 とても久しぶりに雑誌を買って熟読しています。

  これ。私は昨年末に離婚したばかりなのですが、夫婦とは結婚とは何なのかという思いがどこかにあるみたいで、これを読みながら深く考えたいと思いました。まだ読み始めで最初の特集記事である木皿泉の夫婦インタビューを読んだだけなのですが、これをじっくり読めただけでも買ってよかったなと。

 私たち元夫婦は木皿泉夫婦とは似ても似つかない夫婦でした。でも繰り返しますがこのインタビューを読んでよかった。おふたりのことを何も知らない私が勝手なことを言いますが、和泉務さんも妻鹿年季子さんもお互いひとりで懸命に生きてきたご褒美に神様がめぐり合わせてくれたんじゃないでしょうか。孤独に耐えられなくて元夫といっしょにいた私とは大きく違います。私がいつか誰かと巡り合うことがあったなら、その人とはおふたりのようにいろんなことをたくさんしゃべりたいです。たくさんたくさん話したい。

 おふたりのインタビューで特に印象に残った言葉を引用しておきます。

「手をかけると、手放すのがもったいなくなるんや。」

 これは和泉務さんの言葉です。本当にそうだ、夫婦だけでなく友人関係でもそうだなと。私はマイナスの意味でこの言葉を実感しがちなのですが、プラスの意味で実感するのって想像するだけでとても幸せだと思います。愛しさがどんどん増してきて、その人を思うだけで自然と笑顔になるような。

「最悪意識がなくても、 この人のイメージみたいなものがこの世にあるんだったらいいやって」

 これは和泉さんが脳出血で倒れて手術を受けているのを待っているときのことを振り返って妻鹿さんが言った言葉です。このとき自分なりの幸せの定義がはっきり分かったと。

 幸せとは何か考えたときに、私はいちばんに息子の顔を思い浮かべました。この子と楽しく日々を暮らすことがいまの私の幸せなんだなと。妻鹿さんがおっしゃるように、それが分かっていること自体が幸せなんだなと私も思います。先ほどの和泉さんの言葉も、息子に置き換えて考えればとてもしっくりと響きます。育児は楽しいだけでなくてとても疲れるし大変だけど、手をかければかけるほど愛しさが増して、子を見ているだけで自然と笑顔がこぼれてくる。これは当然のことではなくて、こんな風に思えているいまの私は幸せだと心から思います。